最近のブログ、「608. 権力の集中が一般市民の災いをよぶ」、「611. 兵庫県知事選挙で、今の選挙システムが不完全なことを露呈した」の中で強調して来ましたのは、完璧な人間など存在しないのに、一部の人間に権限、権力が集中したり、独善的な判断であろうとも、権限を利用して、自分を批判したり、敵対するものを排除することの怖さを述べています。完璧な人間など存在しない、つまり、どんな優秀な人間でも、過ちを犯すことはあり得るので、権力者の暴走を止める仕組みを作り、働かせることをしなければ、最終的には弱く数多い民衆に悲劇が及ぶことになるのです。

 歴史に数々登場して来た独裁的な権力者の所業を見ていますと、一時的な国民、市民への貢献があったとしても、どこかで、行き過ぎた権力行使を実行して、大きな悲劇を生んでしまうことが必ずと言っていいほど見られるのです。

 最も有名な例では、ヒトラーがドイツ国民に熱狂的に支持されて行った後に、世界を巻き込んだ悲劇を生んだことは皆さんもご存じだと思います。彼の場合、国民にどのようなことをアピールすれば国民が熱狂するのか、それを浸透させる為に、どのような手段を講じると良いか、そしてそれを実行出来る人材を集め、登用することにも長けていたと思います。また、裏では、暴力や詐欺まがいの活動を拡げていくなど、自分自身の欲望、野望を遂げる為には手段を選ばす、特に、国民の命、他国民の命などを脅かすことなど全く意に介さない人物が独裁者となることの恐ろしさを示したのでした。

 このような悲劇を繰り返さないように民主主義を標榜する国が出来て来たのですが、残念ながら、未だに完全な民主主義国家となっている国は皆無だと思います。その不完全な部分をつき、権力に溺れ、独裁的な行動を為してしまう人物がリーダーになることが度々あると思います。それほど権力というものは、一部の上昇志向の人物には魅力的なものなのです。そして、そのような人物は、自身の欲望を隠し、国民、市民の為という一見魅力的に見える蜜を提示し、それに国民は熱狂するのです。

 本当に国民の為と思って、そのことに全身全霊をかけるような人物をリーダーとして選ばないといけないのですが、独裁者はそのような態度を演出することに長けているので、それを見分けるのは難しいのです。私が判断材料としているのは、自分自身を犠牲にしてでも、国民の為のことを優先するかということです。分かり易く言えば一例ですが、多くの国民が暮らしを苦しいと感じているときにでも国民の暮らしとはかけ離れたような贅沢な暮らしをしている人物は自己優先の人間だということがはっきりします。本来は、自分の身を切ってでも、国民生活を良くしようとすべきなのです。だから、トランプ氏にしても、イーロンマスク氏にしても信用出来ません。贅沢の程度は違うかもしれませんが、日本の政治家達も国民の生活苦を尻目にして、豊かな生活をし、国費で高級な会食などをしているのに、何とも感じないような人物が、国民の痛みを理解出来ている訳がありません。彼らは、自分は特別な存在だから、そのように豊かな暮らしをするのが当然だと考えているから、何とも感じないのでしょう。

 そのような人達には、本来国民の代表やリーダーになる資格はありません、自分自身の欲望を遂げたいのであれば、民間の中で金儲けするなり、野望を遂げたらいいのです。政治家を志すことは間違いなのです。

 そして、自分自身の欲望を優先する政治家の究極形が独裁者なのです。