私は人間が作るものは完全なものは無いと考えています。ましてや、前回のブログで扱いましたような例での指示命令は、一部の人間が考え発したものですので、絶対的に正しいと言うことは出来ません。それなのに、人間の命に関わるような命令に絶対服従することほど危険なことはありません。組織体制を維持する為に、ある程度の指示命令は必要ですが、一方、現場にもある程度の裁量権を持たす必要があると思います。そのことにより、人間の判断ミスを致命的な欠陥に陥らせないように出来ると思います。
戦時下や災害下であっても、一部の人間の考えで全て決めてしまうことは避けなければなりません。確かに非常時には明確な指示命令が組織の混乱を招かない為に必要であると言われますが、それでも、人間の判断ミスまでもが絶対的な命令にならないようにすべきだと思います。その為の安全装置が必要なのです。
命令を出す立場の人間達がその地位に裏打ちされて、絶対的な命令を出すこと自体驕りなのです。自分自身の能力を過大評価し、下々の命や彼等の人間的な側面を無視しても、成し遂げるべきものがあると言う錯覚が、人の命をも軽視した命令が出せる原因なのです。このようなことは、権力を持つもの、一部のエリートと言われる者達に多く見られます。このような人間社会の歪は、人間の上に立てる器量の無いものが人の上に立ってしまうことで起きてしまうのです。現代の社会でも、政府や官僚組織、企業組織、いろいろな団体にあちこち見られる現象で、多くの弱い人間が苦しめられることになっているのです。
このように不完全な人間の不完全な社会、組織であるからこそ、絶対服従などと言うものは排除すべきなのです。不完全であることを認めて、ミスがあることを認めて、ミスをカバーするような仕組みが必要なのです。それが、裁量権の分散であり、組織のどの部分からでも、ミスを指摘出来るような体制こそ必要なのです。
我々は法治国家に生きていますが、法であろうと、日々改められているのが現実です。だからと言って、法を破ることを肯定している訳ではなく、もちろん法令遵守が原則ですが、不都合があれば改正すべきなのが法律なのです。そして、最も気を付けなければならないのが、特定の一部の人間の意向で法が作られることと、一部の人間が法を独善的に解釈して、国民などに無理を強いることなのです。
新ハルモニア主義は、人間は不完全であることを認め、絶対的に正しいことや、性善説や性悪説のように人間を画一的に評価することを否定しています。その前提で、多様な側面を持つ人間をいかにうまく律することが出来るかを考えているのです。