ウクライナ国民の惨状を目の当たりにしますと、平和というものがいかに貴重なものであるかを痛切します。これまで、日本では毎日を多くの不平不満を抱えて生きている人が多いのは想像できますが、今のウクライナ国民は死と直面し、自由を奪われ、どうしようも無い理不尽に見舞われていることに比べ、我々はまだまだ努力の余地が残されていることが判ると思います。幸せになりたいと言う努力を決して放棄しないで欲しいと思います。その事が、最終的に世界の平和へとつながる一歩としたいと思います。ただ、今すぐにウクライナの平和に結びつかないのは痛恨の極みではありますが。
幸福とは豊かな生活をすることと考えてしまいますと、人間の物質欲を満たすことが幸せだとなってしまいます。みんながそう思っていますと、富の奪い合いが生じてしまいます。その行く着く先は、他人を蹴落としてでもとなり、そこに争いが生まれるのです。その最たるものが戦争です。この連鎖を理解できますと、富の分配という発想が浮かび上がります。出来るだけ多くの人達がある程度豊かな生活を享受することができれば、争いは減り、武力に頼らなくとも争いは解決できるのです。この状態が幸せの基本です。その基本の上に、ひとりひとりの夢を描き、夢を達成するように努力するところに幸せが宿るのです。
民衆のことなど考えない一部の権力者を除き、大多数の人々はこの考え方を理解できる筈です。だから、どんなことがあっても、平和の維持が人類共通の目的の筈です。だから、平和は、一部の指導者や政治家が提供してくれるものではなく、我々民衆が自ら勝ち取るべき最大のものなのです。多くの人々がこの意識を持てば、政治に無関心などと言っていられないのです。今回のウクライナの惨状を見て、今まで平和が当たり前のものと認識していたほとんどの日本人も、平和の脆さを実感したのではないでしょうか。だからこそ、常にすべての人が平和の維持の大切さを忘れずに、すべての行動を考えていきましょう。
このブログで主張して来ました新ハルモニア主義を思い出してください。まだご覧になっていない方は、1.~15.の記事にも目を通していただければと思います。