よく言われるように、幸福の基準は自分自身で決めるものであって、ひとそれぞれで違うものです。しかし、多くの人はなかなか幸福を測るものさしを作ることができません。そのような人々は他人との比較で幸福を測ろうとしがちです。例えば、権力とか名声とか富とか、ある意味分かり易いのですが、それで本当に幸福度を決められるのでしょうか。権力も名声も富も求めている段階には、やる気の源になったりもしますが、それを得ても幸福感はさほどのものではなく、さらに上を求めることになってしまい、際限なく追い求めても幸福の尻尾はどんどん先に逃げていくのです。欲望は果てしないものなのです。幼いとき貧乏で苦労した人が出世して、ある程度の権力、富等を手に入れても、得られた幸福感以上にそれを失うことの恐怖心から、さらに権力、富を追い求めることになります。この砂地獄にいる内は、さらなる権力、富を求めていくのです、まるで麻薬患者となったが如くに。権力者の満たされるものは支配欲であって、幸福感ではありません。幸福と思ったものが、他人を支配し、他人を思う通り動かす支配欲にすり替わってしまい、それを幸福と錯覚することもあります。いつ裏切られたり、反逆されたりするのかという不安に苛まれる(さいなまれる)精神状態には決して平穏は訪れません。真の幸福感は平穏な時の上に刻まれていくのです。
ひとの争いは欲と欲のぶつかり合いから始まります。戦争は一見、国と国と言うような組織同士の争いのように思えますが、細かく争いを研ぎ解しますと結局は個々人の欲が見えて来るのです。権力者の際限なく肥大化した欲です。どんなに巨大な権力、富を獲得しても、真の幸福感を追い求めない限り、己の欲に支配されてしまうのです。権力、富というものは、限りあるものです。人々がこれを追い求めている内は、必ず権力、富の略奪戦が生じ、争いとなるのです。一方、心の平穏を求める幸福感には限りはありません。だから、そのような幸福感は全人類みんなで共有できるものです。幸福感の中身はそれぞれ違うでしょうが、他人と違っているからこそ争うこともないのです。他人は他人の幸福感があり、自分には自分独自の幸福感があるということに気付けば、お互い尊重しあい、認めあうことが可能です。他人から奪おうとするから争いになるのです。例えば、好きなひとが出来たとしましょう。しかし、相手も自分を好きになってくれなければ幸せになれません。でも、また別のひとを探し、いつか相思相愛となったときに幸せが訪れます。そういうことを追い求めることが重要であって、自分を好いてくれないひとを無理やりこちらを向かそうとしたり、ひとから奪おうとするから争いとなるのです。もちろん、ひとと愛し合うことばかりが幸せではありません。自分が心底愛することができる事と出会うことでもいいのです。それで他人を傷つけたり、他人から奪ったりすることをしない限り、その愛すべき事柄を追及することで幸せになるのです。もちろん、生きていくには生活しないといけませんから、仕事というものも必要だし、出来れば仕事の中にも少しでも充実感を感じられれば、さらに幸福度は上がります。
幸福になりたければ、世界にひとつの自分自身の幸福のものさしを作りましょう。ものさしを作る為に学校生活、社会生活の中で生きているんだと合目的に考えることが大切です。何が幸福なのかは、自分自身が一番充実していると感じることが大きなヒントとなるでしょう。他人と比べ、他人のことをあれこれ羨んだり、妬んだりしている内は中々幸福にはなれません。