美しかったウクライナの街並みが無残に廃墟と化している映像を目にしますと、破壊という行為が人類に対してどれだけ不幸を与えているかということに心を打たれます。一方、平和な日本の街を歩きますと、いろいろな仕事をしているひとが目に入ります。手打ち蕎麦を打ち寸分狂わず綺麗に切り揃えていく様、旋盤で芸術的な精度で部品を加工している様、気の遠くなるような工程を経て華麗な織物が形成されていく様、複雑に多くの柱が組み合わされて家の骨格が築きあげられていく様、などなど数え上げればきりがありません。これらの仕事は、ひとが長い修練を経て為され得るものです。その気の遠くなるような修行の長い時間、ものづくりにかける時間は尊いものなのです。ひとつのものを作り上げることには非常に長い時間を要しますが、それらを破壊するのに必要な時間は一瞬です。人間の生産する食料、衣料、建造物などが富の源泉ですが、この富を生むのは多くのひとびとの地道な労働、努力の積み重ねなのです。国家の威信、主義の違いなど思想の相違を戦争の大義としてよく使いますが、突き詰めれば富を奪い合うのが戦争なのです。なのに戦争は富を破壊してしまうのです。非常に矛盾しています。変な意地や面子に惑わされず合理的に考えれば、富を破壊せず、皆で分け合うことができれば、結局、戦争など必要ないのです。
この考えを理解できるかそうでないかは、他人の痛みを理解できるかいなかで決まると思います。真面目にこつこつ働いている多くの民を殺しても、大義が通ると考えているひとは、リーダーになってはいけませんし、そのようなひとをリーダーにしてはいけないのです。多くの地道に働き社会を支えている民がいなければ、権力者は何もできないはずです。民を使い捨てできるものと思っているのでしょうが、行き着く所、多くの民を破壊尽くしてしまえば、その先には無の世界しか存在せず、結局、権力も何も無駄なものになることを理解して欲しいと思います。