先日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ました。源頼朝が関東制圧後、京へ木曽義仲の征伐に出ようとしますが、関東の御家人達は同じ源氏の義仲と戦うことを是としないことで、頼朝に謀反を計画しますが、北条義時、上総広常の機転で未然に謀反が防がれるという話です。問題はここからです、謀反に対して全くお咎めなしではしめしがつかないという大江広元らの進言に頼朝は首謀者として一人の命を奪うことで収めようとします。白羽の矢が立ったのは、謀反を止めることに貢献した上総広常でありました。本来ならその功績を称えなくてはならない広常ではありましたが、御家人の中で、最大の兵力を誇り、人望もある広常を頼朝は驚異と感じていたようで、この機に潰してしまおうと考えての策略でありました。
数百年もの前の話でありますが、権力者の思考、行動がよく現れている話であります。権力者は自分の部下であれ、全幅の信頼を寄せることは稀で、もしかしたら、場合によっては自分に反旗を翻すのではと常に怯えているものです。特に力のあるものに対しては疑心暗鬼に苛まれるのです。あまりにも非情なこのような行動も、権力者が起こしやすい傾向にあります。権力に酔いしれればするほど、周りのものがすべて己を権力から引き下ろすのではないかと疑うようになるのです。そのことで、周りはイエスマンで固めるようになっていきます。そうすると益々自分自信で判断、決断しなくてはならなくなり、孤立感が深まり、被害妄想に陥っていくのです。そこで、自分自身の考え方に固執するようになり、第三者から見れば独善的な思いとしか言えないようなことを絶対に正しいことだと勘違いしていくのです。さらに、絶対正しい自分に対して、反目するものは何人(なにびと)でも鉄槌を喰わせるのを躊躇うことはありません。客観的にはその行動がどんなに非難されるようなことであろうとも、断固として実行するのです。
権力を持つもの、特に独裁的に権力を持つものは、誰の言葉であろうが耳を貸そうとしなくなります。人間は全能の神ではないということ、いくら優れたものでも、ミスを犯すものであるという謙虚さがあれば、ここまでの独善的行動はとらないと思うのですが、長い人類の歴史で何度も悲劇が繰り返されて来たのです。このことを考えますと、独裁に陥る前に手を打てるような社会システムに移行することが非常に重要であるということです。