先日、小学校の運動会を見る機会がありました。きっといっぱい練習したのでしょうか、三年生のみんなはモダンなダンスを上手く踊っていました。踊り終えて、多くの生徒がやり切った感からか、満面の笑みを浮かべて、近くの友達達と喜びを分かち合っていました。学校生活では、幼いとは言え、いろいろな悩みや苦しみも経験しているのでしょうが、その一瞬は本当に屈託なく幸せを噛みしめている様子でした。幸せの原点はこのような身近な所に存在しています。無邪気な生徒さん達はほとんど皆、何も変な意識もすることなく幸せの瞬間を感じることができるようでした。それなのに、中学、高校と成長して行くにつれ、感情の現れも様々なようになります。心の中では、幸せと感じても表情に出さないものや、このような友達と苦労を共にし成果を出せたような事柄でも冷めて見て感情に浮かばないものもいるような感じです。
 人は小学校高学年や中学校の間に思春期を迎え、自我が芽生えて、今までは同じ種類の人間として自然と友達と行動を同調出来ていたのが、自分自身と友達とは違うのだと、周りを意識したり、自分の行動もギクシャクしてくる頃です。それまでであれば、屈託なくちよっとしたことでも幸せを感じられていたのが、そうは出来ない自分を発見するのもこの頃です。人間が独り立ちして大人になる為の過程であるのですが、この時期に幸せをどう感じるかは、大きく差が出来るような気がします。人間の自我は、己れの人生を形成する為には必要ですが、自分自身がどのような人間であるかと言う命題の答えは簡単には出てこないので、自我を感じてはいても、ついつい同世代の人間と行動だけは同調してしまう傾向もあります。社会生活上は、協調ということはそれはそれで大切なのですが、この場合は協調ではなく、安易な同調となっていることがあります。自分自身で消化することなく、単なる模倣であってはならないのです。成長するにつれ、色々な人間関係を経験していくにつれ、自分というものの核心が明確になって行き、それを意識しつつ、他人と争うことが無いように協調していくことの折合をつけられるようになることが大切なのです。このバランスを欠くと、自分以外はどうなっても良いという感情に行き着いたり、反対に自分を無くすことで摩擦の無い人間関係を過ごそうとしたりして、自分の人生は何なのかと悩んで、自分を否定することに行き着いてしまうこともあります。前者は最近起こった米国での銃乱射事件の犯人がそのような例でしょうし、後者は若くして自殺するひとにも当てはまるかもしれません。
 できれば思春期の間に、自己と他己のバランスをとれるようになることが重要です。もちろん、極端なバランスの欠如がなければ、それ以降でもバランスをとれるように努めることをお勧めします。今までこのブログでは多くのひとが幸せになってもらいたいという目的で、ひとりでも多くのひとが他人の言動や行動に惑わされないで自分自身を見つめ直し、自身の幸せについての感受性を上げ小さな幸せでも喜びを感じること、そして、そのようにして見つけ出した自身の幸せを壊されたくないのであれば、人の幸せを壊さないように心がけることを説いて来ました。欲望を遂げることが幸せだと錯覚する人は多いとも思いますが、欲望は限りないもので、どこまで行っても満たされることの無い底なし沼のようなもので、私の言う幸せとは違います。幸せは自分と他人の平穏の上に成り立つものなのです。自分の欲望そのものを達成しようとするとその先に他人を犠牲にする争いが存在します。そのようなところに平穏はありません。自己と他己のバランスをとるということに平穏が存在し、幸せが宿るのです。そのようなスタンスで、自分自身の今までの人生、これからの人生を見つめ直してください。その中で少しずつ自分というものが理解できるようになると思います。

投稿者

弱虫語り部

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